院長紹介

 

<経歴>
 昭和 63 年 3 月
 鶴見大学歯学部卒業
 平成2年2月 おりたりゅうじ歯科医院開業

 

<プロフィール> 

 少しでも私のことを知っていただ
 ければと思い、プロフィールを
 作製しました。拙い文章ですが、
 宇部市おりたりゅうじ歯科医院に
 お越しになる前にぜひお読みください。

 

 

幼少時代

私は、昭和38年11月に5人兄弟の末っ子として下関市内の病院で生まれました。


父はごく普通のサラリーマンでしたが、仕事上、とても転勤が多かったため、母、三男、私は、父のもと4人で転勤先での生活を送りました。また、兄弟の上3人は、私との年齢差が12才以上もあったため、両親の故郷の宇部で叔母のもと、私たちと離れて生活を送りました。私の記憶の定かでない5才まででも、父の転勤先下関、高松、神戸で生活したようです。

 

私は3歳の時、斜頸という先天性の病(私の場合、右へ頸を回転できない)を患いました。当時、母は、遠い専門病院へ雨の日も、寒い日も毎日必死で私の治療のため通院したとのことです。周りの人の話では、当時の母の姿は、感心するほど私のために一生懸命だったようです。その甲斐あって、完治しました。末っ子ということもあり、私は両親の愛情をたくさん受け、健康で元気に育ちました。

 

幼稚園時期は、札幌で生活しました。このころ初めてスキーセットを買ってもらい、母と兄と3人で近くの公園で楽しく遊んだことを思い出します。

 

夏休みには、離れていた兄弟も集まり家族全員で北海道1周旅行をした思い出もあり、家族の絆を強く感じました。

 

小学校

卒園と同時に父の転勤のため、今度は東京へ引越し、新宿区立四谷第四小学校へ2年間通学しました。

 

3年生からは、甲子園球場近くの西宮市立春風小学校へと転校となりました。


これまで一緒に仲良く遊んだ友達との別れは、とても辛く、寂しい思いでした。そして新しい学校へ行く不安を今でも覚えています。しかし、転校してみれば、すぐに友達もたくさん出来、習い事など全くせず、放課後は、ほとんど毎日夕方遅くなるまで野球をして遊んでいました。また、家族全員阪神ファンで、よく甲子園へプロ野球観戦へ行ったものでした。

 

そして、4年生になるとまた「転校」することになり、再び「別れ」を考えると辛かったです。しかし、今度の引越し先は隣の校区の上甲子園小学校だったので、前の友達とは中学校でまた会えると思い、少しは気持ちが楽でした。

 

上甲子園小学校の校区は「教育」が盛んな文教地区で、名門中学校受験のための学習塾が多く、母もこの風潮に感化され、5年生からは進学塾へ通わされました。私自身、勉強(進学)に興味がなく、毎日友達と野球をして遊ぶことしか考えてなかったので、とてもイヤでした。

 

6年生になり受験が近づくと、一生懸命勉強したことを覚えています。そして、私が受験する学校は、大学までストレートに行ける有名中学と決まりました。

 

しかし、その時相談した担任の先生は、この受験を勧めませんでした。「君はこの中学へ行くより、公立へ行った方が将来の選択肢が増え、成長できるのでは・・」とアドバイスされました。それから両親と話し合い、結局受験せず公立へ進学しました。

 

もし受験し、合格していたらおそらく今の自分(歯科医)にはなってなく、普通にそのまま大学を卒業して専門職にはついてなかったと思います。

 

ある意味、私の人生を大きく変えた人は、6年生のときの担任の先生だったと思います。

 

中学・高校時代

中学は、西宮市立上甲子園中学校へ通学しました。

 

春風小学校の友達とも再会でき、中学生活始めの不安も少なく気が楽でした。


クラブは、丸坊主がイヤで野球部ではなく、吹奏楽部へ入りました。私のパートはトロンボーンでした。当時このクラブは全国的にも有名で、吹奏楽コンクールでは関西大会、全国大会まで進み優秀な成績を上げ、また、秋のマーチングコンテストでは中学校部門で毎年1位を獲得できる強豪チームでした。当然、全国レベルのクラブなので、練習は大変厳しく、毎朝6時30分から2時間、放課後は夜6時まで、コンクール近くになると夜10時まで練習に励み、部員全員が一丸となってがんばっていました。

 

思い出としては、甲子園ボウル(社会人bPチームと大学生bPチームのアメリカンフットボールの対決試合)のハーフタイムで、マーチングバンドとしてショーに参加し、TVに出演したことや、2年生のとき音楽家として有名な大先輩たちを交えて、上甲子園中学校吹奏楽部のレコードをリリースしたことなどたくさんあります。

このクラブを通じ、先輩後輩の上下関係の厳しさ、礼儀を知り、またチームメンバー1人1人がスキルアップのための努力、取り組む姿勢や、チームワークの大切さを学びました。振り返ると充実した中学校生活だったと思います。

 

高校は、兵庫県立鳴尾高等学校へ進学しました。クラブは丸坊主にしなくてもOKな軟式野球部に入部しました。大学のサ−クルのように部員同士みんな仲良く、楽しく活動しました。

 

< 歯科医師になろうと思ったきっかけ >
これまでの自分の人生の中で転機となった出来事が、高校2年生のときに2つ重なり、歯科医師を目指すことになりました。それは、
1.耐え難い歯の痛みの経験、もう一つは、2.父の事業の成功 です。

1.私は幼い頃から大きなむし歯になったこともなく、歯の治療に対して怖い、痛いものだと感じたことは一度もありませんでした。しかしこのころ、奥歯のむし歯を放置しておいたら、だんだんそのむし歯の穴が大きくなってきて、少しズキズキ痛み出したので、近所の歯医者に行きました。その時、歯科医にむし歯の穴を器具で触られました。その瞬間、私は飛び上がるくらいの強烈な痛みを味わいました。そうです

、歯の神経を触られたのです。私にとっては、とても耐え難い痛みでした。(むし歯が大きくなるまで放置していた私が悪いのですが・・・。)この辛い経験がもとで、私が歯科医師になって、患者さんが歯の治療に痛みを感じず、安心して通ってもらえる信頼される医院づくりをし、医療を通じて社会貢献したいと思ったからです。

 

2.父は、私が中学3年生のとき、長年勤務した会社を辞め、新たに事業を創めました。そしてその事業が成功し、今までより少し生活が豊かになりました。

 

そんなある日、私は、父の部屋へ呼ばれました。父との話は、高校卒業後の”進路について”でした。父は私に、「親として、子が希望する道への進路は、どんなに苦労しても叶えてやりたいと思っている。もし私立大学歯学部であっても金銭的なことは心配するな!

 

ただし、特別裕福な家庭でもないので、必ず、現役合格、留年なしのストレ−ト卒業が条件となるが、それができるなら歯科医師になりたいという目標に向かってがんばれ!」と言ってくれました。私は父の言葉にとてもうれしく感じました。そして一生、両親を大切にしようと心に誓うようになりました。大きな目標を持った私は、受験まであと1年半しかないことを考え、受験教科をしぼって(私立大学歯学部のみの受験)、猛勉強をしました。振り返ると私にとってこの一年半は、”必ず、現役合格”というプレッシャーもあり、自分の人生の中で一番努力し、勉強した時だったと思います。その甲斐あって受験した歯学部はすべて合格することが出来ました。その中で当時一番金銭的に負担の少なかった鶴見大学歯学部へ進学することになりました。

 

大学入学

大学へ入学し、一人暮らし生活がスタートしました。そうじ、洗濯、家事等すべてやらなければならない生活は、はじめ慣れるまでは大変でしたがまわりに気を使わない自由ができとても有意義な生活を送ることができました。 歯科大生なので、歯科医師となるための勉強はもちろん遊びの方にも才能を発揮し始めました。

 

大学のクラブ活動は、軽音楽部に所属し、ベースギターを担当し、リズム&ブルース、ロック、ジャズ、ポップスなど様々なジャンルの音楽に触れ、仲間とともにライブ活動をしました。

 

また、旅行もクラブ以外の友人と一緒にたくさんしました。スキー旅行、日本全国を巡るグルメツアー、夏休み2週間かけての北海道一周旅行、卒業旅行は海外へと楽しかった思い出がいっぱいでき、勉強に遊びに、とても充実した6年間でした。仲間とともに青春時代を過ごすことが出来たことは、私にとっての宝となりました。

 

肝心な勉強はと言うと、臨床が始まると俄然興味がわいてきて「早く一人前の歯科医になりたい」と思う気持ちが強くなりました。そして卒業にあたり、大学に残り専門的に勉強することも検討しましたが、より多くの患者様と触れ、臨床経験を積めることのできる場を求め、開業医での就職を決めました。

 

勤務医時代

晴れて歯科医師になった私の次の目標は、最高の医療技術を身につけるため日々研鑽し続け、最良の医療を提供できる歯科医になることでした。

 

私の勤務医時代は2年間でしたが、その間、当時の院長の指導のもと歯科医療に対して真剣に取り組む姿勢を教わり、インプラント、矯正、歯周(ペリオ)審美、補綴(入れ歯、冠、ブリッジなど)など様々な知識、技術の習得に邁進続ける日々でした。

 

目標に向かって何事にも貪欲に取り組み、歯科医師として大きく成長できたと感じる2年間でした。

 

開業してから

平成2年2月1日に現在の地におりたりゅうじ歯科医院を開設しました。

 

開業当初は、ただ、ガムシャラに働いていました。患者様のお口の中の環境はむし歯、歯周病がひどく、予防管理する以前にまずは、治療に追われる毎日が続きました。いくら良い治療をしても、治療後に定期的なケア(メンテナンス)を受けていただけないために、次に来られたときには、かなり悪い状態になっているということが続いていました。

 

治療を繰り返していくだけでは、決して患者様のためにならないことを感じました。
そして、私たちおりたりゅうじ歯科医院のチ−ムメンバ−は一丸となって、治療中心から予防中心へと医院改革を行ないました。

 

現在では、患者様の口腔内の健康を生涯に渡り維持するため、コミュニケ−ションを取りながら、一緒に治し、予防をしながら生涯ともに歩んでいけることが、私たちの目指す医療だと確信し、実践しております。


私たちは、これからも地域の皆様にとって安心され信頼される歯科医院、より豊かな人生を歩むためのお手伝いをする医院であり続けたいと願っております。


今後とも、おりたりゅうじ歯科医院をよろしくお願いします。